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自身の事は棚に上げて
綺麗に生き続けたい

総て認めてこそ総て手に入る
だから俺の汚れは
「自分(と同じ場所)の汚れだ」
と成分分析される

大切ものが大切な理由は
「汚れているから」か、
俺は恥を楽に捉えようとは思わないね

事実の方が言い訳のように聴こえるから
何処かに何か落ちてないか探してしまうのかもな

完璧に映っているのは自分の理想だから
思い通りにいくのと、思い通りにいかず思い描くのは同じ

だったら
「思い通りの計画を思い描くのは思い通りにいかない」から
「同じ」かな

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人は俺が大事にしている物を見つけるのが上手い

何ともないと思っていたものが
他が大切にしていると
そのものの価値に気付くものかな

扱われ方で変わる価値は
1番目より2番目を大切にしているから雑になる

要らないように見えていたのではなく
大事な物はいつも(2番目に)隠しておいたから

単純な理由より複雑な方が見栄えがするけど
リアリティがなくて嘘くさい

自己表現の方法は
より自分に有利である方を選ぶから

結局
「限られた場所で使用されるもの」

「限られた場所でしか表現できない」
と思うね

いつからか人の思う事の先回りをするようになった
以前
「空気が読めるから何を求めているかが分かる」
と書いたが
その通りにするのもあえて避けて通るのも思うように出来る
そうした自分によって人の出方が変わってくる

それが(出方が)俺に影響を受けた結果ではなく
自分の意志で決めた事であるから
あえて曲がった方向へ移動する

同じように与えられた知識を
「自分なりに解釈、理解する事」を
「全く別の物に挿げ替える」
と捉えられる

俺自身は自分の事を自分で考えるように出来ているから
何者に影響を受けた訳がなかったり(・∀・)
しいていえば他と興味を持つ物が同じでも
見方や目線が違うから違って見えるだけだろうね

結果だけが同じであるのは
「出来上がったそのもの」に
影響を受けているのではないのかな
 

昔から単純なアニメにしか興味がなかった
自身が大人になるにつれ見るアニメの傾向が移り変わる事が少なく
思えばついこのあいだまで幼児番組を見ていた気がする

複雑なアニメは途中から見ると排他的な扱いを受ける上に
登場人物が何を言っているのか分からず、それを理解しようとしないから
結局その輪(話)に入ろうと思わない

自分等に通じる言葉だけを使って
公共の電波を使ってそれらの戦い、
主に
「自分達の精神世界の具体化」
を堂々と放送、宣言しているという考え方は
ひねくれ過ぎているという気もするが
やっぱり好きになれない

今はそれが少しリアルになって
「ネットという空間が精神世界と同じである」
という考え方である現代人が
「当時のアニメを好む人達をネットという世界観に引き込んでいる」
のかもしれないな、なんて(・∀・)

子供向けとされる番組にその要素は必要がないから
逆に単純な仕上がりになるが
(あえてその要素を避けられて作られているのがわかるような)

子供向けの番組も大人のアニメオタクが大人の目線で見るようになって
それが「駄作だ」と言われるようになる
よって
大人はフラグを読んで、子供は単純に物語を楽しめるという二重構造になっている訳だ

だから人が集まると
「大人の見方をしているか」
「子供の見方をしているか」
というのが直ぐに分かる

そうして
「どちらの見方が子供か」
という所に辿りつく

数日前に
「小さな積み重ねが隣にある同じ高さの物のフラグになる」
と書いたが
その小さな積み重ねが何物であるかまでは分からない

つまり小さな積み重ねの中に自分の意図しないものが紛れても
「同じ高さの物が隣にあるという条件」
がフラグになり
「その意図しない物(=噓)の数」
でその人が
本質的に嘘つきであるかどうかが分かるのかもしれないね(・∀・)

そしてその小さな積み重ねが
「自分の手で積み上げたものではない」
というのが
「フラグの条件」であると思うね

ただしそれがネットという匿名性の高い場所である場合
本名を晒している以外総てに当て嵌まる

つまりそれだけ
「同じ積み重ね」が幾つも存在し、
それぞれに著作権が生じる為
結局噓の数で自身の積み重ね(著作権)の価値が決まる訳だ
 

P R